1 考えること (『法律学楽想』p221〜226)

訴訟を受任するときに依頼者の主張する事実と提示された証拠で勝ち得るか、予想される相手方の反論まで検証して引き受けるのは当然のことである。しかし、それなりの検証をして勝つはずだ、勝たなければおかしいと思って引き受けた事件が相手方の弁護士の反論に遭ってどう考えても負ける事件になってしまう。依頼者には調子に乗って胸をはった手前、負けましたと「どの面さげて」いえようか。
そこで考えることだ。うんうん唸って考えることだ。弁護士の名誉と誇りとそして報酬さえもかかっているのだ。「口先ばかり調子よい弁護士で役立たずだ」といって、依頼者を失うのは不明を詫びてやむを得ないとしても受任するには必ず紹介者があるはずだ。この紹介者の顔をつぶしてしまう。世間を狭くしてしまう。勿論、報酬も得られないことになる。しかし、ここで負けることは何よりも弁護士としての自らの誇りが傷つき、自信喪失につながりかねない。小さな事件かもしれない。そんなにいつまでも抱え込んでいては採算が合わないかもしれない。しかし、考えるのを止めて敗訴したり、敗訴的和解に応じて自ら無能をさらけ出しては、弁護士人生の総体の採算は物心両面にわたってさらに悪化する。
過日、ある書面を末光先輩に見てもらったところ「通り一編のことを書いただけだね」という感想をもらった。これはもう弁護士を辞めろと叱られているに等しい。同僚・先輩の厳しい批判に堪える調査と思考を重ねられたい。頭が割れる程だ。
ここで、小学校の低学年の自分のアダ名を思い出した。「おやじ」と「はしか犬(狂犬のこと)」だ。弁護士のあるべき姿だ。父として、家族全員の心配りがあると共に、外敵に対しては勇猛果敢に、そして執拗に恰も狂犬の如く闘い尽くす、その心意気で依頼者のために仕事をしたい。自分の頭脳の限界まで、時間ぎりぎりまで、考えて考えて考え抜くことだ。そうすれば知恵が湧き出てくることだってある。勿論、唯考えれば良いというものではない。学説、判例、立法例を調べ尽くし、考え尽くすのだ。子曰く「学びて思はざれば即ち罔し、思ひて学ばざれば即ち殆ふし」。真意かと思う。