6 人格主義の弁護士観 (『法律学楽想』p275〜280)

人格の完成を人生の目的とするのを人格主義の哲学という。人格の完成とは「知・情・意」という精神作用の調和ある発展の謂いである。この筆法を弁護士活動に応用してみたい。
第一に、知的活動が求められる。宮沢賢治の偉大なるところは雨ニモマケズの詩の中で「よく見聞し、分り」だけでなく「そして忘れず」と感受性と理解の大切さのみならず記憶しておくことの大切さを説いていることである。法律も判例も事実もよく覚えておかなければならない。しかも正確にハードディスクに入れておかなければならないのだ。頭の片隅からいろんな情報を何時でも引き出せることによって、その情報総体を生かしてより正確な判断が可能となる。
そして具体的事実は契約書や準備書面にするとき抽象化してきっちりとあてはまる形に整えてなければならないし、抽象的概念には闊達に具体的内容を盛り込まなければならない。小さな記憶ちがいが大きな結果を招くこと、たとえば相手の小さな思い違い、記憶違いを衝いて全体の立場を崩したこと、あるいは自分の記憶違いを糊塗してしのいだ苦しかったことなど経験ある弁護士なら思いあたることの一つや二つあるはずだ。
弁護士に求められる知的活動はこれにとどまらず、ある事実から他の事実を推理する力など多様な知性が求められているのだが、最も大きな力は多様な生活事実のなかから法的に意味のある事実を読み取ってする「要件事実」への構成力である。その構成された要件にかかわる法的効果の実現をなしうるのは訴訟内外の法技術である。更には、その事案の法体系上の位置づけ—その事件を担当することの当否についての知的判断力も求められる。これつまり「知の作用」である。
第二に、常に依頼人の立場で、依頼者の気持ちを自分の気持ちとして解決に当たらなければならない。これ即ち「情の作用」かと思う。
第三に、要件事実を構成すれば事足りるものではない。その要件事実に即した法律効果を実現するための努力、推進力が必要である。これが意志とか意欲とかいわれる精神作用で、ときに実現のために伴う恐怖に打ち勝つ必要があったり、眠さをこらえる忍耐が求められたりする。これが「意の作用」である。
友情の大切さを峯村光郎先生が「友の憂いに我は泣き、我喜びに友は舞う」と説かれたのを、友を依頼者と読み替えてみたいと思う。
このようにして「知・情・意」の三つに磨き抜かれた弁護士を目指したいものである。
この理を弁護士に大切なことは「頭・胸・胆」であると言い換えよう。
①弁護士は「頭」が良くなければいけない。
それによりよく訓練されていなければならない。依頼者はナマナマしい生活上の困難を訴えてくる。そのナマの生活事実のうちから必要な事実を聞き出すにはどのような間をもって聞き出すかも含めて、どの事実をとらえて、どのような法的構成にしてどのような手続きにのせるのが、依頼者の困難な問題の解決に至るか、少ない時間で確かな切り込みが求められる。解決のために採用する手続きも必ずしも法的なものに限られない。仲介者に誰をたてて交渉することまで含めて切り込みの鋭さは知的作用即ち頭に負うところが大きい。
②更に「胸(ハート)」がなければならない。
依頼者の困難を我が事として、その立場で感じ共感を得なければならない。おいしいお菓子の作り方は食べる人への愛情の多寡だとのこと、とするならば我々弁護士の仕事の出来栄えの良し悪しは又、依頼者への愛情の多寡でもあろうかと思う。
③のみならず「胆」がすわっていること。
「男は強くなければ生きられない。やさしくなければ生きる価値がない」のだそうだ。男を弁護士に置き換えても然らんと思う。
法の運用の最先端を行動するということは、常に違法と合法との接点にいることである。違法と合法の判断を知的判断力によって識別しうる能力があるだけでなく、依頼者のた
め己が人生を賭してこれを守る情熱に加えると同時にこれを断じて行う勇気が必要である。 切迫した交渉事の席で相手方に「先生も家族があるのでしょう!」などと脅されて、それに屈して弁護士の職責を逃避するようでは弁護士としての責任を全うしたことにならず、また真の意味で社会の弁護士に対する期待に応えることはできない。
責任をとること、弁護士は職業に士の名をもらっている。士(サムライ)だ、「名にし負はばいざ言問わん士(サムライ)さん、腹を切る覚悟ありやなしやと」だ。その名に恥じないように戦場で逃げたりは勿論のこと、責任逃れは一切するな、昔、武士は仕事を仕損じると腹を切った。
怠けた結果は当然として、平時に判断の誤りがあってもその責任を追及された。良い時代になって、士の名をもらっていても弁護士が生身の命を差出すことも少ないかと思う。しかし一瞬の判断の誤りが依頼者の命にあるいは全財産に別状を来たすことはある。責任賠償保険への加入など、依頼者に迷惑をかけないよう出来る限りの努力をするとしても、その結果に対して何時にても職を賭する、俗にいう「バッヂをはずす」覚悟は必要かと思う。それでこそお上から「士」の名をもらうに値する職業であろう。