内野経一郎 略歴
昭和11年10月15日 鹿児島県東郷町(現 薩摩川内市)生まれ
同 24年3月 大淀小学校卒業
同 27年 3月 宮崎日向学院中学校卒業
同 30年 3月 宮崎大宮高等学校卒業
同 34年 3月 中央大学法学部卒業
同 37年 3月 中央大学大学院修士課程修了
同 37年10月 司法試験合格
同 40年 3月 司法修習終了 (17期)
同 40年 4月 弁護士登録
同 40年 4月 藤田一伯弁護士(二弁・17期・早大政経卒)
とともに前田知克法律事務所勤務
同 41年 5月 藤田弁護士と共に東京第一法律事務所開設
同 47年より別経営で −現在に至る

鹿児島県東郷町生れ

所属 東京弁護士会
著書 1.「実践マンション法入門」 (株)冬耕社            昭和51年3月
2.「新借地借家法の契約書式とチェックポイント」
     (仁平志奈子と共著) 第一法規出版(株)      平成4年5月

3.「法律事務所事務職員マニュアル」 第一法規出版(株)  平成5年9月
4.「法律学楽想」              中央大学出版  平成12年12月
5.「法律事務所事務職員マニュアル パラリーガル業務編」
                       (第一法規出版梶j平成167
6.「法律事務所事務職員マニュアル 秘書業務 事務所運営編編」
                       (第一法規出版梶j平成167
7.「登録40年 弁護士 内経一郎紹介」            平成1711
信条 心境、特になし(神道的情緒あり)。家は浄土真宗
中学はカトリックのミッションスクール
支持政党 自由民主党<消去法的支持>
家族 妻 公子(昭和14年生 武蔵野音大卒)
四男一女(長女・次男・三男は既婚)


・ 私が弁護士になった理由−デモシカ弁護士

(1) 就職がなくて
 私は、昭和30年中央大学法学部に入学した。一年の学年試験が終わって、成績は殆どが良と可で確か語学2つ、理系教養1つ落としていた。
 当時、就職難であった。中大では少し名のある企業は受験者そのものに割り当てがあり、例えば法学部2名と制限していた。そこで、受験希望者多数の場合には学内選考と言って三年次までの優の数で受験資格が選別された。たまに学内選考のない企業があったが、「本社…墨田区(有)○×運送 職種…運転助手」等というのもでとても勤まりそうになかった。既にどう頑張っても学内選考に残る成績は不可能で、学内選考のない就職を考えるより他無かった。考えあぐねているうちに大学の成績に関係なく受け入れる司法試験に思い当たった。
 そこで、司法試験でもやるかと勉強の真似事を始めた、と言うと聞こえは良いが就職の途は司法試験しかなかった。ちなみに、成績の自己申告を付き合わせてみると昭和30年入学法律学科四組の約80名中卒業時トータルの成績は尻尾か、ブービーのようである。

(2) 受験勉強は松戸江戸川べりの遊郭あとの全寮制司法研究室であった。合格したとき、祝の宴はねて後輩の故馬渕顕(広島弁護士会)が「先輩司法試験に合格する方法を教えて下さい」というので朝5時に起きて水をかぶり勉強し6時半には体操し朝食のあと研究室に入り…と語りはじめたところ「先輩勉強すれば受かるのは分かってるんですよ。遊んで受かる方法ですよ」という。勤勉であれば良かったと、今にして悔やまれてならないが、そんな風に見られる受験勉強ではあった。

(3) 怠け怠けの試験勉強で何とか合格はしたものの、現実感覚に乏しく、更に浮かれて怠けて任官などお呼びでなく弁護士登録に至る。かくして司法試験シカ就職がなく弁護しシカ進路がなかった。
 実務庁前橋における勉強も清水さん、青木さん、池田さん、足立さんのガリ勉を横目に、伊藤さんを仲間に引き込んで大分迷惑を掛けてしまったが単身の気楽さのアルコールリレーションや、お遊びマージャン、卓球と充実し、果ては恋の真似事では起案はどこかへ行ってしまい、とても任官といえる状態ではなかった。
 「デモシカ教師」、「デモシカ警官」というが「デモシカ弁護士」である。
 かくいうも間違えてくれるな。30有余年を経て今は、弁護士になったことを後悔していないし、生涯一弁護士であることに自負を持ち、「生まれながらの弁護士、ボーンロイヤー」を僭称している。

(4) イソ弁時代(S40.4-S41.4)
 修習時代のメインイベントの一つに機関車試乗というのがあった。他人との付き合いの間合いを図りかねていたときに「ワセダでしょう!」と声をかけてもらったのがはじまりで同じクラス(八組)の藤田一伯の指導を受けて今日に至っている。
 同じ事務所に勤務しましょうと訪問した事務所の前田友克先生にすっかり惚れ込んで二人一緒にとってもらった。
 今にして思えば私の起案力のなさや世間知らず、尊大さなど、一言でいえば未熟さからなのだろうが、聴取した事実と異なる起案を命ぜられたと感じて数日寝かせ起案できず気持ちが行き詰まって、当日になって書けませんと投げてしまい、事務所を辞めることになった。その結果、先生にも迷惑をかけるし、巻き添えで私のことを心配してついてくる為、一緒に事務所を辞めた藤田には更なる迷惑をかけてきた。
 前田先生に教えられたことは多く、起案に手を入れられると見違えるように鋭く力強くなるので、いつの日かこんな文章が書けるようになりたいと憧れたし、最も印象に残っていることは、先生の意に添わないことを依頼者が要求すると思い切り口を曲げて「俺は弁護士だぞ。そんなウス汚ねえことが出来るか」とニラミつけて居られた表情であり、今でも思い出す。
 私も、「俺は弁護士だぞ。そんなウス汚ねえことが出来るか」と自信に満ちて小気味よくこんなタンカを切ってみたいものだと思っているが、依頼者の質が高いせいか、私が温厚なせいか、無体な要求はやんわりとお断りすることはあっても今日までその機会に恵まれていない。

(5) 事務所独立
 藤田を頼りに彼と共に2人で東京第一法律事務所の看板を掲げて独立したが、程なく前田事務所から山根二郎弁護士が転がり込んできた。山根君は先生とうまくゆかずに辞めて来たらしく、先生に不満を持っていて、前田先生批判の舌鋒は鋭いのだが、前田先生語録の中で「依頼者は最大の敵である」について一つだけ良いことをいう、と敬服していた。
 相手と闘うことも大変だが、依頼者の信頼を得、更に費用報酬の負担を願うのは更に大変なことを先生らしく表現しておられたことも思い出される。
 又、先生は日本中のどんな集団をもってしても弁護士程豊かな知性を持った社会集団はないと自負し誇りにしておられた。そんな、お互いが尊敬し信頼し合える集団であることは実に弁護士の理想であろうと思う。